2.対話 …灯台守、神と話す / 1
数日のあいだ、島での生活は淡々と過ぎた。
当初リヴァイが予想していたものとは、少し違った形であったが。
早朝、身支度を整えて管理小屋を出る。
色褪せた海と空、くすんだ土と草。眠る灯台の姿。鼻孔を刺す潮の臭い。それらすべてが曙光に霞むさまをひととおり眺めたあと、足を踏み出したリヴァイの目の前に、ドスン、と落ちるものがあった。
「……あ?」
地面に転がった塊は、一羽の海鳥だった。
翼をきちんと畳んだ格好で目をつぶり、ピンと伸ばした脚を爪らしき部分からダラリと垂らしている。リヴァイがしゃがんで覗き込んでも、ピクリとも動かない。外傷はないようだが、上空で何かとぶつかったのか。気絶しているのか死んでいるのかもいまいち見分けがつかない。
リヴァイは立ち上がって家に戻ると、荷物の中から一番古い服を持ってきて鳥のそばにしゃがみ込んだ。小さな体を包んで持ち上げればまだほんのりと温かく、鼓動を感じるような気もする。一日経っても目覚めなかったら埋めてやろうと決めて、脇に抱えたまま目先の風呂小屋へと歩きだした。
が、妙なことは続くものだ。
家を離れてすぐ、リヴァイの後を〝何か〟がついてきはじめたのだ。
足音はない。しかし気配を感じる。敵意までは察知できないが、「アレを探ってやろう」という妙な気迫が背中をくすぐった。
リヴァイは足元にあった小石を拾い上げると、間髪入れずにそれを頭上へ放り投げた。
「っほあ?」
突然の奇行に驚いたらしい間抜けな声――女の喉から出た中音だ――が聞こえてきて、つい毒気を抜かれたものの、素早く後ろを振り返る。
果たしてそこには、何もいなかった。開けた土地に怪しい影はなく、隠れられるような障害物も周囲にはない。正直、いたところで反応に困るという思いでもあったで、これ幸いとまた歩きだす。
ところが、今度は気配に加えて、足音までがついてきだした。
もはや隠れようなんて小細工をする気もないらしく、草にまぎれた小石をじゃりじゃり言わせながら、むしろ存在を主張するかのようについてくる。リヴァイよりもいくぶん広い歩幅で、時折跳ねるように音が飛ぶ。奇妙で、なのに無邪気な放埓も感じて、己の背後にある像をまじまじと想像しそうになる。
とりあえず目的地についたので、リヴァイは無理やり意識を切り替えた。
まずは現状の確認だ。外観に破れがないかを見て回り、扉を開けて光と空気を通す。
小屋の底面はほぼ正方形をしており、壁や天井のみならず床にも石が敷きつめられ、その上に板が置かれていた。中央には一段低く造られた石焼用の炉があり、その周りの三面を長椅子が囲んでいる。一面に大人一人ずつは座れそうだ。入口に面したスペースには垢落とし用の水瓶まで用意してあり、予想よりも立派な蒸し風呂にリヴァイは少し感心した。
さっそく掃除に取り掛かろうと、抱えていた鳥の包みを小屋のそばの丸石の上におろし、必要な道具を数えるために設備のひとつひとつを点検する。途中で足音のことを思い出したが、何かしてくる様子もなかったので結局忘れてしまった。
島には強弱に限らず、風がひきりなしに吹いている。だからそれが止まるようなことがあれば、かえって不自然なものとして気を引く。小屋の外に持ち出した長椅子を懸命に磨いていたリヴァイが、ふと顔をあげたのも、そんな理由からだった。
壁板をカタカタと揺らしていた風が、いつのまにかピタリと止んでいた。手元のブラシの水気を切り、凝り固まった背をほぐす。
視界の端にはあの丸石が映っていた。常に意識を残してはいたが、鳥の包みに動きはない。やはり死んでしまったのだろうか。今日は少し早く切り上げて、墓を掘ってやらねばなるまい。
そう決めて、たった一度だけ瞬きをした次の光景に、なんの脈絡もなく女が立っていたので、リヴァイもさすがに驚いてしまった。
鳥の包みの前に、こちらに背を向けて立つその姿は、それだけでもう「女だ」とわかる程度には馴染みのあるもの。リヴァイは彼女を知っていた。
「オイ、っ」
ぴゅう、と風が吹いて、リヴァイの一声を掻き消す。
大の男の動作を紛らす強風にも女は髪さえ揺らさず、ごく軽く腰を屈めて、す、と鳥の包みに手を伸ばす。そうして、日に照って白く光るシャツの一点を、ちょんと指でつついた。
何を、などと考える暇もなかった。包みがいきなり膨れ上がり、布のあいだからひょこんと、あの鳥が頭を出したのだ。そうして心底驚いたような表情を見せたかと思うと、慌ただしく羽を動かし、あっというまに飛び立ってしまった。
「……生きてたのか」
ようやく声に出した時には、鳥どころか女も消えていた。残ったのは一枚の羽と、皺だらけのリヴァイの服だけだった。
女が立っていた。
それはもうれっきとした女だった。そう呼べるほどの肉感を持っていた。こちらに背を向け、力を抜いた状態で海を眺める姿に、腰の後ろで組まれた長い腕に、リヴァイは「どこかで見たな」と記憶を撫でられる。海の上を、一羽の鳥が飛んでいく。
不意に、今まで必死に耐えていたかのような性急さで女が振り向いた。同時に視界が横に縦にと揺れ始め、気づけばリヴァイは、椅子に座ってがくりと首を垂れている状態になる。
横に足が見えた。すぐそばに、女が立っていた。なぜか頭を上げられない。
首の裏に湿った息を感じる。触れられる距離まで肉薄しながら、女は手を伸ばすこともなく、静かに笑うだけ。
「……クソが」
起き抜けに飛び込んできた光景は、リヴァイに盛大な溜息を吐かせた。そりゃあもう、肺を潰すほどの吐きっぷりだ。燃え尽きたランプの燈心が少し臭う。またうっかり椅子の上で寝てしまったようだがそれどころではなかった。
島に来て六日目。リヴァイはすでに一つの日課を確立していた。
一日に二回、朝夕欠かさずに部屋中をホウキで掃き清めることである。島での生活はリヴァイに好きなだけ掃除の時間を与えてくれたので、点灯の役目がくるまでは心ゆくまで没頭することができた。当然ながらこの小屋の中は、ましてや床にも埃一つない状態が保たれている。
はずなのだが、まさにその床の上が、無残にも泥まみれになっていたのだ。
立ち上がりざま、足裏がざりざりと音を立てる。己のすぐ下、十センチ四方周囲、一メートル周囲、と視界を広げたリヴァイは、その惨状にもう一度深い溜息をついた。
窓を見やれば外景もガラスもしっとりと濡れていて、昨夜遅くに雨が降ったのだとわかった。もう止んではいるようだが、床の泥も当然その恩恵を受けて湿り気を帯びている。おまけにこの泥は、しっかりと人間の足の形を象っていた。つまり、誰かが歩いた足跡となっていたのだ。リヴァイのそばから部屋の入口、小屋の玄関へと続くその軌跡は、入って来てまた出ていった、という往復を示している。
「……」
室内に漁られた様子はなく、体に異変もない。
足跡の主はただ部屋に侵入して、リヴァイの寝顔を見て、それだけで帰っていったらしい。
しかも、おそらく初犯ではない。
リヴァイが覚えのない床の汚れに気づいたのは今朝だけではなかった。なんなら二日目の朝からもう家の中で砂粒が光ったり陰ったりするのを見つけて舌打ちしていた。隙間から吹き込んでいるのかと結論付けて駆逐していたが、昨晩の雨が、とうとう真夜中の犯行を洗い出してしまったわけだ。
とりあえず掃除と身支度を済ませ、家の外に出る。
足跡が灯台まで続いている以外は至って普通の、相変わらず薄暗い島の朝だ。
灯台まで歩き、扉を開けて顔だけで中を覗く。
搭の内部をらせん状に登る小窓から、柔らかい光が差していた。それは岩壁や鉄階段に反響し、あるいは吸い込まれて薄く消えいき、青く白くと、均一ではない陰影を作り出してる。どこか荘厳な光景の中、しかし入口から階段にかけてはあの泥跡が続き、見える限りでは上まで昇っていっている。
見事な絵画の隅に下手クソな字のサインを見つけたような気分で、このころにはもう、リヴァイの怒りとも呆れともつかぬ感情はほとんど沈静していた。
リヴァイの部屋だけならまだしも、あちこちにこうして跡を残しているのだ。侵入者は己の足裏の状態に気づかず汚しまわったのだろう。そもそも侵犯するなという話は、侵しているのがこちら側の可能性であることを考慮して一旦脇に置く。なんにせよ、毎晩訪問してくる不明の存在に、リヴァイを害そうなんて気はさらさらないに違いない。間抜けに寝こける男をそのままにして出て行く悪人なんて、過去に会ったことがないからだ。
さて、こうなるとこの汚れた灯台の扱いを考えなければならない。
仕事として言い付けられたにもかかわらず、リヴァイはまだここの清掃に手を出していなかった。自身の生活を優先したのもあるが、この場が『他者の領域』であると感じ取っていたからだ。それを侵さぬよう灯篭まわりの埃や潮だけを払い、点灯の役目を終えればすぐに退散していた。
だが昨晩の所業を見るに、向こうはリヴァイの一連の行動を特別の尊重とも受け取っていなかったようだ。今後も同じ気遣いが返ってくる可能性は低い。
リヴァイは、舟を降りてから今日までの、まったき新しい場において目新しいことなど何もしてこなかった時間について考えた。特に、その時々で吐息のようにリヴァイを掠めた不可思議について。
視線。足音。囁き。呼吸。痕跡。常にじゃなくとも、すぐそばにあった何者かの気配は、しかし決してこの身を傷つけようとはしなかった。
もういいか、とリヴァイは思った。
お飾りであっても仕事は仕事。生活できるだけの支給がある限り、表向きはその名分として課せられた役目をこなさなければならない。リヴァイは灯台を管理せねばならず、どうやらそこを根城にしているらしい何者かも、厳格に不可侵の線を引きはしていないようだ。
だったらもう、やるべきことは決まっている。
そういうわけで、リヴァイはその日、灯台内部の大掃除に挑んだ。
灯室に梯子を持ち込み、初日に見上げた天井からガラスにかけてをモップの柄と繋げて自作したハタキで叩きまわし、雑巾で磨き、余計な埃と塩とを除去した後は床の掃除に移る。ここは鉄製なので専用の洗剤で汚れを落として拭き上げ、防錆油を塗布していく。
当然だが時間がかかる作業だ。陽はすっかり秋空の真ん中に昇り、ガラス越しに灯室内部を温める。隙間風もあるとはいえ、季節を見失うほど暑い。
(暑い、か)
額の汗をぬぐい、こうして気温だの体温だのに意識を止めたのはいつぶりだったか、と思い返す。
リヴァイが港町までやって来たのは冬の働き手が求められることを見込んでのことだったが、夏には季節労働者としてムギの収穫に携わっていた。あの時も炎天下で汗を流したはずなのに、苦しんだことはもとより、そこから解放された瞬間の心地良さでさえ記憶に残っていない。夏だけじゃない、その前の月日からずっとそうだ。身の内に何も残らぬ人生を、おかしいとも思わず生きてきた。
「…ー」
ふ、と。呼ばれた気がして顔を上げる。もちろん誰がいるはずもないが、リヴァイは無意識に立ち上がっていた。
灯篭の巨大なレンズに、夜とは逆に、外からの光が差す。照り返ったその光は、磨いたばかりの天井や窓に反射して、石や鉄やガラスなんかの多様な煌めきをあたりに散りばめている。闇夜を裂く強さとは違う、眩しくも柔らかい光明。
「……大したもんだな」
何気なくこぼした後で、己の中からそんな言葉が出てきたことに驚く。視界に広がる光景は確かに感嘆に相応しい美しさだったが、裏に自分自身への称賛も潜ませてしまったようで少しだけ気恥ずかしい。
のぼってくる羞恥を振り払うように掃除を再開しながら、リヴァイはなんとなく、今日のことは少し先まで覚えているのではないか、と思った。目新しいことなど何もしてこなかった男が、けれどそれ故に、こうして見ることを叶えた絵だったからだ。
とはいえ、何事も夢中になりすぎるのは良くない。
手元が随分見えづらくなったところで、リヴァイはようやく日が沈みかけていることに気づいた。掃除はらせん階段の中腹を過ぎたあたりまで完了していたが、明日に回すことにして再び上階に昇っていく。六度もすればもう工程は慣れたもので、刻々と夜に飲まれていく中を上階までたどり着き、梯子を伝って灯室に立つ。灯器の台座にいつもどおり燃料油を注いで、レンズの横蓋を開き、持っていたマッチで燈芯に――ほのと光る火を、まさに点そうとした瞬間だった。
小さな橙が、ふ、と闇に消えた。風も、ましてや水もない場所でだ。
「あ?」
燃えがらになったマッチを手元に引き戻したところで、今度はそれなりに重量のある横蓋がゆっくりと動き、目の前でしっかりと閉じてしまう。
鼻先で起こった不可思議に、思わず身構える。が、極めつけは背後で起こった。
ガシャン、と重たい金属の音が鳴り響き、勘づいたリヴァイが走り寄った時には、階下に通じる床のハッチがその道を閉ざしていたのだ。
「オイオイオイ……」
渾身の力を込めて引けども、やけになって押せども、なぜかそこはびくともしない。不具合、という線はすぐに消えた。奇妙な閉まり方をしたレンズの横蓋も同様に開かなくなっていたからだ。どうやらリヴァイは、なんらかの理由で灯室に閉じ込められてしまったらしい。
音や気配に異状はない。が、海抜五十メートルの、まったき夜の中で耳にするびょうびょうという風鳴りは、未知の生物の歓声に聞こえなくもない。馬鹿な考えだ。頭を振ってそれを追い払ったリヴァイは、少し考え、バルコニーへの扉の前に立った。今日の掃除の時も、これが最後の負い目とばかりに触れなかった場所であるが、状況が状況だ。
意を決して取っ手をつかみ、内側に引く。
手ごたえのない床のハッチとは反対に、そこはすんなりと開いた。
生まれた隙間から途端に空気が入り込み、冷たいそれが灯室の温度をぐっと下げる。海を渡ってきた夜風が、優しいとも、尖っているともとれる感触でリヴァイの頬を撫でていく。
眼前に広がったのは、正真正銘、初めて臨む光景だった。
腰まである鉄製の柵の向こうに、ひたすら、どこまでも広がる闇。
どす黒い雲の隙間に息も絶え絶えに瞬く星。黒を混ぜ込んだ紺碧の水面。波に揉まれる花びらのような光と、ぶつかり混ざる波音だけが海の存在を主張して、導きのない夜の底なしを突きつけてくる。
こんな状況でなければ楽しみようもあったかもしれないが、リヴァイはあいにく、灯台に火を点すという仕事の途中であった。
背後を振り向く。物言わずに鎮座する灯篭を眺め、リヴァイは一つ、ため息をついた。
「……しょうがねぇな」
一旦中に引き返し、またバルコニーに出て、持ちだしたロープの端をしっかりと柵の一部に結び付ける。もう片方の端を柵の外に投げて外壁に垂らした後、ポケットにしまっていたマッチに火を点け、正確な位置もわからない地上に向かって落としてみる。ロープは灯台の真ん中にいかないあたりで途切れているようだった。ギリギリまで下っていって、そこから落ちたとして、最悪死にはしない高さだと目算する。
リヴァイが柵を跨ぐのは早かった。
大口を開ける地上の闇に背を向け、手に繊維を食いこませ、息を吸う。次の瞬間にはもう、リヴァイはバルコニーの床から足裏を離していた。ささいな迷いや未練もまとめて捨て去るかのように、いきなりだった。
ごうごうと耳元で呻く風の中に、バキン、と耳障りな音が鳴る。
負荷と浮遊。
緊張と解放。
そんなものものをいっぺんに浴びて、噴きだしたそばから冷える汗を感じて。
覚悟するほど怖くもないな、と、それでも終わりを悟った時。
「……嘘!?」
幻聴だろうか。こんな場所で、聞こえるはずもない声がした。
「ちょっ待って待って、――!」
走馬灯ではなかった。聞き覚えなどなかったからだ。
ドン、と全身に衝撃を感じて、息が止まる。けれどリヴァイの意識はまだ世界にあった。
地上で体を潰した状態で――ではなく。空中で、時を止めて。
女に抱きしめられた姿で。
「……は」
自分の手指さえ確かに見えない暗黒にあって、女は、体の内側から光を発しているかのように輪郭を保っていた。ミノで空気を彫り出したように、まごうことなき不可思議としてそこにあった。なのに。
「なにしてんだよ馬鹿ッ!」
飲んだくれの亭主を怒鳴りつける女のように眉尻を吊り上げて、ずいぶん人間らしい表情でリヴァイを見ていたのだ。
浴びせられた剣幕に何かを返す前に、ドスン、と二度目の衝撃に襲われた。ついで横転する感覚があり、視界が一気にブレる。今度こそ全身を強打したらしい。まともに息ができなくなる。
「ッ、は、ごほっ」
「ああもう! ビックリして着地失敗しちゃったじゃないかっ!」
横で何やら喚き声が聞こえるが、リヴァイは地面の上で背中を丸め、おとなしく肉体の鎮静を待った。正常な呼吸の記憶をたどり、ふう、ふう、と肺を動かし、体に生じた異常を感じ取ろうとする。
「ねえちょっと聞いてる!? どこか痛むの!?」
「いや……まったく」
負傷も、どころか痛みもなかった。
この場で異常な熱を持っているのは、今いま隣でがなりつづけているよくわからない女だけだ。
リヴァイは顔を上げた。顔を上げて、女を見て、その目鼻や口の形も知らなかったくせに、「夢の女だ」と理解した。その認識は疑う余地も一切なく、すとん、と腹に落ちてきたのだ。
が、女のほうはまだ激情に駆られていた。
「君は私が見てきた人間の中でいちっばんの馬鹿だよ! 愚者の王か!? どこの世界にロープ一本頼みであの高さから落ちようって奴がいるんだ!?」
酷い言われようだ。だが女の指さす先を見上げて、聳え立つ塔の遥かな高さを改めて刻むと、愚かの評も当然かと思う。リヴァイは黙って立ち上がった。少しだけよろけたが、腰や足も問題なく動く。しっかと地面を踏み、まだうずくまったままの女を見下ろす。その姿はやはり、不思議と夜から際立っている。
「ちょっと、」
「悪いが……仕事がある」
「へあっ?」
女は、綺麗な形の眼をしていた。
端の尖るべきところは尖って、上下の瞼の線は滑らかで、縁取りの毛は豊かで、リヴァイを見上げる目線もひどく整って印象的だった。ぐしゃぐしゃに歪んでいたその目元が、しかしみるみるうちに力を失って、呆然、といった表情を作る。
「……しごと」
「上の……灯台の火を、だな」
「や、知ってるけど……」
〝知ってる〟――正確にはわからないが、落下の途中からここまでで精々十分程度しか時間が経っていないはずだ。そのたった十分で、リヴァイはもう、女について一番重要なことを知らされていた。
この女は人間じゃない。
たぶん、命を持った生き物ですらない。
リヴァイは今、不明の存在の前に立っているのだ。
女が、す、と立ち上がった。
目線はリヴァイの少し上にあって、コイツ背高いな、なんてどうでもいいことに思考を囚われる。
「今から上に行って、火を点けるっていうの?」
「あ?……ああ」
「信じられないよ、本当に」
こうして表面上は何の変哲もない会話をしている今こそ「信じられない」状況だったが、女が急に腕を広げてリヴァイに肉薄し、あまつさえ抱き着いてきたので、ささいな順位などはるか遠くへ飛んでいってしまった。
「ッ……オイ」
「動かないでくれ」
「なん、……あ?」
耳の横を、上から下に風が掠める。瞬きのあいだに、周囲は暗闇から見慣れた場所に移り変わっていた。
灯台の頂上階だ。
女が背中に回していた腕をほどき、呆気にとられたリヴァイの体を解放する。よろけた足が鉄床を踏み鳴らし、暗い内部に間抜けな音を響かせた。
「……」
リヴァイは胡乱な気持ちで女を見ていた。女の前で確かな感情をあらわにするのは初めてだったが、向こうは視線一つで内心を読み取ったらしい。どんな反応するのかと思えば、いきなり横っ腹を突かれたみたいに顔を背け、小さな声で言う。
「もう邪魔しないから……どうぞ」
今日ほどこの光を待ち望んだ日はないように思う。
ギイギイと音を立てて巻き取った分銅が下降し始め、すぐに、上階から重たい稼働音が共鳴する。梯子を上り、正常に開くようになったハッチから顔を出すと、目の前にひょんと女の顔が突き出てきた。なぜか逆さまだ。
「……登りたいんだが」
「やっぱり君って相当変わった人間だね」
人の形をしておきながら人にはあり得ない行動をする女も、一見すれば〝相当〟なんて収まらない範囲で変わっている。そのくせ、自分を種の範疇の外に置いた物言いをするのだ。
リヴァイが梯子を上るのに合わせて、空中に逆さ吊りになっていた体を当然のように床の上に戻すのだから、そりゃあもう『人間』なんてものじゃないのだろう。
さて、仕事を終えた今。ここからは未知との対話の時間である。
リヴァイは女の正面に立ち、改めてその全身を上から下まで眺めまわした。
肩より少し上でばらばらに毛先を並べた亜麻色の髪。尻にかけてあがった眉の下には、見つめ返すのに少しだけ怯む眼。豊かに山を描く鼻梁。ほんのりと光る頬骨。厚めの唇に深い口角。長い首の表面に突起はなく、なのに着ている服はなぜか男物のシャツとズボン。それでもすらりと滑らかな体の線を浮かび上がらせている。
こうして向き合えば、リヴァイより少しだけ背丈のある、意志の強そうなただの女だった。
「……お前が」
リヴァイは、静かに口を開いた。
「この島に住んで若い男の精を啜り散らかしてるっていう、邪神か」
「いやちょっと待って待って! 私のことかなり曲解してるね!? 誰から聞いたか知らないけど精を啜る? 神は神だけど、若い男どころか人一人この手にかけたことなんてないよ!」
勢い強くまくしたてられたが、正直、この点については嘘とも本当とも判断のしようがなかった。リヴァイはリヴァイの身に起こったことでしか物の長さを決められないからだ。
「ならなぜ俺を閉じ込めた」
「そっ、」
切り返されてぐっと詰まる様子を、隠した裏が透けやしないかと見つめる。
「……それについては、ごめんなさい」
が、女は肩を落とすと存外素直に頭を下げてきた。人外に謝罪される日が来るなんて予想もしていなかったリヴァイである。女は、あれほどくっきりと世界に主張していた顔の部位を縮こまらせ、俯いたまま弁解する。
「あの……今日、君がここをすごく綺麗にしてくれたからお礼がしたくて……見せたいものがあったんだけど、どうしたら君を引き止められるかなって、それで」
思わず、「はあ」と間延びした声が出てしまった。てっきり、リヴァイの行動の何かが逆鱗に触れたのかと思えば。
「ほ、本当だよ!? 数分くらいで終わらせるつもりだったんだ! けどまさか飛び降りるなんて」
「いや……わかった」
どれだけ意外へと突き抜ければこの女は満足なのか、今度は必死に言い訳を重ねる子どものような顔をして、対面のリヴァイに縋らんとする。それをちゃんと立たせてやってから、やっぱり面倒になって、リヴァイは床にどかりと腰を下ろした。掃除したばかりであるし、今夜は特別だ。女もそれに倣って隣に座り、両脚を抱えてリヴァイを見る。
呆れるほど無防備な姿だ。深々と息を吐き、額を覆って話を再開する。
「一つずつ確認したいんだが、いいか」
「君はつくづく手順を守ろうとする人間なんだね。いいよ」
「……まず、俺が島に来た日から色々ちょっかいかけてきてたのは、お前ってことでいいのか」
「あ、うん。ちょっかいというか興味半分心配半分というか、気になってつい過干渉になってしまったんだ。煩わしい思いをさせてしまって申し訳なかったね」
女は一を投げて十を返す性質らしい。心配ってなんだ?と気になったが今は置いておく。
「次に、お前は人間の命を奪うような神じゃない……で、いいんだな」
「もちろん! 全神に誓う、私は決してそんなことはしない! 本当だよ!」
全神。また妙な単語が飛び出した。いちいちいくつも脇道をぶち抜きながらやって来る女に、リヴァイも本筋を見失わぬよう思考を制御する。
「なら三つ目だ。俺の前にここにいた男は、どうした」
「前?……ハリーのことだね?」
急に声が調子が落ちて、ちらりと横目で窺えば、女の表情も声に似つかわしく沈んでいた。
神というものは、こうして人間と尻を並べて、人間の情をひっかけていくような振る舞いをするのだろうか。リヴァイにはわからない。過去に触れ合う機会もなかったからだ。
「どこから話すべきなのかな。ハリーは……この島でひどい孤独感に苛まれていたんだ」
「……孤独」
迷うような囁きの中に、つい一週間ほど前、警告すべき対象としてリヴァイに送られた単語が現れる。リヴァイの復唱に、女もどこか気重に頷く。
「そう。精神的な拠り所を失くした人間が陥る心理状態。人がそういう感情に支配される原因の一つには『時間』があると私は考える」
「時間?」
「外部からの刺激を受ける機会が減った人間は『事実』のかわりに『時間』を資源として思考しはじめる傾向がある。時間の比重が増えれば増えるほど事実の割合は薄まっていき結果として思考は根拠希薄な『想像』になる。大抵はこれが遺伝子由来の悲観を基盤として『妄想』へと変貌してしまうんだ」
「何言ってるか全然わかんねぇな」
「あれ? ううんと……要するに暇が、続くと悪いことばっかり考えちゃうんだよ。自分の置かれた境遇が最悪な状態にあるのではないかなんてことを。なのに真実を確かめてそれらを是正しようとはしない。……怖いから」
「……」
妙に実感のこもった言葉だ。リヴァイが何か返すべきかと考えているうちに、しかし女はひらりと元に戻る。
「現にハリーもここを去る直前には酷い状態になっていた。頻繁に幻覚を見てひどく怯えていたくらいだ」
「そりゃ幻覚じゃなくてお前じゃないのか」
「私は一度も彼の前に姿を見せなかったよ。それでもあ、んまりにも見るに堪えない状態になっていたから……追い出しちゃったんだ彼を、この島から」
「……何をした」
女は唇を噛み、辛そうに吐き出す。
「日に日にご飯も食べ、なくなって眠りも浅くなるし目に見えて顔色が悪くなって痩せていくしこのまま、じゃ死んでしまうと思って、だからあの日」
しきりに動く唇を見ながら、リヴァイは一つのことに気づいていた。こんなに声を流しながら、女の口は、一切息を吸っていない。さらに、長尺の言葉を話すときは区切りがところどころ変になる。人間が喋る時の真似をしているだけなのだ。
間近で示された〝人間ではない〟事実の前に、しかしリヴァイは、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「死んじゃあいねぇんだろう……焦るな、ゆっくり話せ」
思わず、女に向かってそう言っていた。女は驚いたようにリヴァイを見たが、リヴァイはもっと驚いていた。どう考えても立場が逆だ。しかし何が功を奏したのか、女はほっと息を吐いて、今度は冷静に話し始めた。
「ある日、近くの海に大きな船が通るのに気づいて、進路がこの島に向くよう小さな嵐を起こした。乗っている人間が島に上陸してハリーに会えば、彼に適切な処置をしてくれるんじゃないかと思ったんだ」
〝小さな嵐を起こした〟――嘘か本当かもわからないが、後者ならずいぶん簡単に発生させたものである。
「だけど、その船に偶然、彼と身体年齢が同程度のヒトの雌が何人か乗っていて……」
「……女のことか」
変な言い回しのせいで少し考えてしまった。
「彼女たちは一晩の助けを求めて下の小屋まで登って来たんだけど、ハリーはどうやら、その中の一個体に尋常じゃないほど性的興奮を覚えたようだ」
「っあ゛?」
「一晩中二人で話し込んで、嵐が去った次の日も、ハリーは彼女を引き止めた。そうしてとうとう船を出す前の日の晩に、彼女一人をここに呼んで共に食事を摂ったんだ。だけど途中で……二人の興味が、食料から、あの……別のことに移ってさ、うん」
リヴァイは、島に来てから初めてゾッと寒気を覚えた。初日に剥いだシーツとマットが最後に受け止めたものをありありと想像してしまったのだ。初手から一番危険な場所の駆逐に動いたあの時の自分に、硬い握手を求めたくなる。
「私はそこで視るのをやめたんだけど……気づいたら、二人も船も、島からいなくなってたんだ」
「探さなかったのか」
神ならそんなこともできるのだろうと何気なく問いかけると、やはり「うん」と気軽な肯定が返ってくる。
「一応探したよ。海にでも落ちてないか心配だったし。でも、数キロ先から覚えのある心音が聞こえてきて……それがとても穏やかだったから、『これでいい』と思った」
整理され、納得という棚に収まる経緯。その端っこの、ほんのわずかに折れた箇所を摘まんだリヴァイは、しかし掌中に握る前にそれを離してしまった。女がこちらを向き、深い色の瞳にリヴァイを映したからだ。
「人間はね、独りじゃ生きられない。さっき話した『孤独』を感じる器官が、その社会の形成と運用に大きく作用しているからだ。だけど……君はここに来てから働きづめだった。毎日飽きもせず汚れの除去に夢中になって、形骸化した灯台の点灯役すら馬鹿みたいにこなしていた。おかげで暇に浸る暇もなく、未知の存在であるはずの私の干渉にも何ら不安を掻き立てられることはなかった。というか、ほとんど私のことを無視していたよね?」
かくん、と首を傾げて、なのに視線は留めたまま、深い穴底の眼が問うてくる。
「もしかして、……君は、独りでも大丈夫なのかな? 他の人間たちと違うのかな?」
リヴァイは、何も答えなかった。こういう問いの腹には、もうすでに何らかの結論が埋まっているからだ。案の定、女はリヴァイを見据えたまま、内側に思考を巡らせる様子を見せて、それから迷いなく言う。
「ねえ、頼みがあるんだ」
「……なんだ」
「君の生態を、そばで観察させてくれないかな」
果たして、一介の人間風情に、神の願いを拒む権利などあるのだろうか。
あるのだろう。
なぜなら、大の男の自由落下を制止させ、十数メートル高を瞬時に移動し、嵐まで起こせる目の前の神は、こうしてリヴァイと尻を並べて、リヴァイに倣って手順を守り、わざわざ「頼み」という形でリヴァイへの干渉の許可を取ってきたからだ。そのなんとも滑稽な姿は、島に来てから今日までにリヴァイの身に起こったことと合わせて、物の長さを決めるのには十分な材料だった。
そういうわけで、提示された神の願いに、リヴァイは自分なりの答えを返す。
「仕事を手伝うなら、好きにしていい」
「……しごと」
「この……灯台の火をだな」
「や、知ってるけど……」
不意に、風を感じた。
温かくて湿ったその感触は、女が、リヴァイのすぐそばで「あっははは!」と声を上げて笑ったせいだった。リヴァイは、神を名乗るその女のずいぶん幼稚な笑顔に、悪くない、とだけ思った。
礼と謝罪と挨拶を兼ねて、と女にバルコニーへと連れ出され、「えい」と指さした先で雲が割れる様を見せつけられた。ひん曲がってブチ切れた柵の向こう、ときおり灯台の光に霞む満天の星空を臨みながら、「これを見せたかったんだ」とはしゃぐ女の隣でリヴァイは「どうしたもんか」と腕を組む。今後女と関わり続けるのなら、髪をかき上げるような気軽さで使われるこの力についても制御を設けるべきだろう。じっと考えこむリヴァイの目を、女がまた奇妙な角度で覗いてくる。
「ねえ、改めて自己紹介しようよ! 私は神。よろしくね!」
「どんな名乗りだ」
「君の名前は?」
「リヴァイだが……お前、名はねぇのか」
「うん。必要ないし」
――どれだけ掻いたところで、先のことは、確かには見えやしないのだ。だったらリヴァイがすべきは、手元にある事実のひとつひとつを丁寧になぞっていくことなのだろう。これまでもそうしてきたように。
「なら、今日から『ハンジ』と呼ぶ」
「ハンジ?」
「どっかの偉い奴の名だ。……せいぜい慎ましく清貧で暮らそうじゃねぇか、お互いに」
神妙に囁いたリヴァイだったが、目の前の神はそこに込められた願いを遥か遠くに、朗らかに笑うのだった。
〈続〉
(初出 24/05/31)
(更新 25/02/28)
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