光の下に彼らはいない
神と添い遂げる灯台守の話
1.邂逅 …灯台守、神と出遭う
陰影深き雲を背に、寂しく佇む塔の頂き。
誰もいないはずのそこに、粒のような人影を見た気がして、リヴァイは一瞬、すべての音を忘れていた。
「お前さんの、前にいた奴のことなんだがね」
濁った声が意識を叩く。正面に目を向ければ、案内役の老人がモゴモゴと白髭の茂みを揺らしていた。けれど海に慣れないリヴァイの耳は、押し寄せる音の群れからひとつだけを拾うことは叶わない。
「……悪いが、もう少し大きく喋ってくれ」
言いながら、再び肩越しに背後を振り返る。人影はもう見えなかった。
波間を掻いて進む小舟の上には、リヴァイと老人と、最低限の私物が詰まった鞄だけが載っている。老人は身を乗り出し、パドルを漕ぎながら着岸の位置を確かめるリヴァイへと距離を詰めた。
「前任の灯台守のことさ。そいつぁ……いなくなっちまったんだよ、ある日突然」
皮脂と潮の混ざり合った濃い匂いが、ムッと強くなる。
「は。どこぞに飛びでもしたか」
目的地の島には、長年波に削られた結果、かえって波を抑え込むように反り返った断崖がそびえている。あそこから空を踏めば、暗色の海は深くまで体を飲み込んで二度と浮かび上がらせることはないだろう。
「わからん……。だが、奴は消える前……様子がおかしくなっていた」
「だから?」
リヴァイは横顔のまま問いかけた。果たして老人は、垂れた瞼の下から目を光らせ、これまた胸焼けしそうほど重たい声で言うのだった。
「気をつけろよ、若いの。孤独に呑まれんことだ……」
『夕刻から早朝にかけて、
島の灯台に火を点すこと
島の管理小屋で単身生活し、
灯台の清掃と点検を怠らないこと
一名 資格問わず 急ぎ求む』
安宿の湿った一室に、狙いすましたかのように投げ込まれた求人を一目見て、リヴァイが腰を上げたのは二日前のことだ。いささか衝動的な行動ではあったが、清掃が含まれた仕事内容と、『島での一人きりの生活』に惹かれるものを感じてのことだった。
構えばかりが立派な役所を訪れれば、役人は手を打ち鳴らして喜び、風来のリヴァイをその場で採用した。
この時のリヴァイは、当然知らなかった。
これがのちに、何度も「あそこが岐路だった」と回想することになる、重要な選択だったのだということを。
迎えた出勤初日、午前九時。
波揺れに背中を押されながら降りた島は、曇った空と海とに挟まれて全体が薄っすらと汚れていた。
街から舟で数時間の場所にあるこの島は、パン生地を麺棒で東西に伸ばしたような形をしている。広さは徒歩で一時間かからず回りきれる程度。砂利だらけの小さな浜辺以外は岸壁に囲まれており、そこを抜ければあとは傾斜のきつい小道を登っていくだけになる。
「住民は灯台守一人、と聞いたが」
「そうだよ。……それがどうかしたかい」
黙っていると、早く行こう、と背中を向けられた。老人に連れられ、リヴァイはさっそく島の一番高い場所にある灯台を目指す。
潮風の影響か木々は高度の低い一帯に集中しており、登るにつれて地面には背が低い雑草と岩しか見当たらなくなった。おかげで島の周囲を遠くまで眺めることができたが、濁った水平線にぼこぼこと影があったところで余所者のリヴァイは何の感慨も抱けない。晴れ渡った空なら多少は違うのかもしれないが、老人曰く「ここいらの天気は年がら年中こんなふうに濁ってる」とのことだった。
島に意識を戻すと、前方にいくつか建物が見えた。
古めかしく黒ずんだ井戸、大人一人がやっと立ち入れるような小屋が一つ二つ。煙突がついている小さいのは風呂だ、と老人が言う。それらの脇を過ぎると、足元の小道が二手に分かれた。一方はひときわ大きな建物――「あれが管理小屋だよ」――が、もう一方は目的地の根元に続いている。
老人は息を切らしながらも、迷うことなく後者の道を選んだ。リヴァイもそれに続き、とうとう、己の管理下となる灯台を臨む。
全長二十メートル超。
海抜から頂上部までは五十メートル高を誇る、夜の彼方を照らす塔。
内陸部で暮らしてきたリヴァイも、子どものころ、どこかで別の場所で灯台の光というものを目にしたことがある。空も海も黒く塗りつぶされた一面のほんの隅っこで、一筋の閃光がゆっくりと回転を繰り返していた。不思議と灯台そのものは思い出せない。
この塔も、日が暮れれば闇に沈むのだろうか。
赤白の縞模様に塗られた外壁は、海上からの目印となるためだろうが、鳥の糞や雨だれの跡で散々に汚れてくすんだ状況では昼間でも役に立っているのかわからない。周囲も雑草が伸び放題で放置されている。しばらく人の手が入っていないらしい。
視線を水平に戻すと、老人が鉄製の扉を開けて待っていた。そわそわとリヴァイを見る顔は「先に入れ」と小うるさい。リヴァイは促されるまま進み、内部の薄闇に半身を浸す。
そうして、すぐに動きを止めた。
「ー…」
しばらく息をひそめ、未知の空間に神経を馴染ませる。
一瞬、目蓋のあたりに奇妙な風を感じたのだ。どこかから吹き込んだ隙間風や物が動いた時の名残とは違う、変に温かくて湿った感触だった。
まるで、そう。
誰かが、リヴァイのすぐそばで小さく笑ったみたいな。
首を伸ばし、吹き抜けの塔内を見上げる。壁に沿って鉄製の螺旋階段が作られ、上階の足場に到達する構造になっていた。壁には階段の高さに合わせて一定の間隔で小窓がついており、そこから差し込む光が、円状に屋内を照らしている。怪しい存在、例えば意思を持ってこちらを認識しているような何かは見つからない。
「どうかしたのかい」
「いや……」
老人は何も感じなかったらしい。
入口のすぐ横にあった小部屋を指して「ここは倉庫だ。燃料油なんかはここにある」とせっかちに説明して、中も見せずに階段を上り始めた。リヴァイもそれに倣う。数分で上階の足場に到達すると、さらに隅に備えつけられていた梯子段を上り、灯室につながる天井のハッチを押し開けた。明るい空間に頭を出し、床についた手で体を引き上げ、リヴァイは灯台の光源を振り仰ぐ。
『灯篭』と呼ばれるその部分は、島の寂れた様子から予想していたよりもずっと巨大だった。
リヴァイの腰まである台座の上に灯器が載っていて、前と後ろ二面に一メートル高はあろうかというレンズを構えている。レンズは平面ではなく凸面、中心に水滴を落としてその波紋を一輪ずつ刻んでいったような不思議なカットが施されており、目を凝らして覗くと中には小さな燈芯があった。これが灯台の光の元なのだろうか、普通のランプで使うような大きさだ。遠くの海まで照らすには心もとなく感じる。
「日が沈むころに、この給油部に油を注いで、中の芯に火をつけてくれ。下の足場に巻き取り機があるから……」
台座を囲む回廊に沿って歩きながら、老人の大雑把な説明を聞く。
ふと足元を見れば、ロープや雑巾、バケツなどの清掃用具が鉄製の床の上に散乱していて、どれもこれも、目を凝らせば壁や台座や灯篭にも、表面に塩のようなものが白く噴いている。急にいなくなったという前任者はもとより、リヴァイが着任するまでに代役を務めていただろう人間も、この灯台の管理にはそれほど心を砕いていなかったらしい。
ぐっと視線を上げて、今度は灯室の内部を見回す。三角にカットされたガラスが組み合わさり、全度に渡って壁になっていたが、これも外壁と同じように汚れが目立つ。
ガラスの外側にはぐるりとバルコニーが設けられており、重たい扉から外に出られるようになっていた。ガラスの清掃や修理、そんな機会があるかはわからないが、近くを通る船との連絡のための場所なのだろう。
地上にはない風の音と、強い光を感じる。建材をつたってつながっているはずなのに、この空間だけが宙に浮いているような、奇妙な浮遊感をリヴァイは覚えた。
外を見るリヴァイに気づかなかったのか、老人は懐中時計を取り出して針の方向を確かめると、さっさと階下に降りてしまった。一人残っているわけにもいかず、リヴァイも結局それに従う。
今日から塒になる場所は、小屋といいつつ、正面から両脇に二部屋分が確認できるほど大きかった。木造で全体がじっとりと湿った色をしているものの、修繕が必要な箇所は特段見当たらない。
左の窓からちらりと覗き込んだ室内には食卓らしきテーブルがあり、食いかけの皿が放置されている。一瞬だけ身構えたが、カビや腐敗の気配はない。
もしかしたら、前任者の失踪とやらはそれほど過去のことでもないのかもしれない。あるいは、代役がしばらくここで過ごしていたか。どちらにせよ港街の連中は、この状態の後始末をつけることなく、昨日今日やってきただけの人間を説明なしにこの島へ放り込んだということになる。
「じゃあ……俺は行くよ」
不審を感じ取ったのか、管理小屋の鍵を手渡しながら、老人はもう体の半分を翻らせていた。
「一週間後にまた来るが……天候のこともある。貯蔵庫には食料がたんまりあるから、多少遅れても心配しないでくれ。……」
リヴァイは黙っていた。殊更、老人を問い詰めるようなこともしなかった。背中を向けた彼は、二歩三歩と進んで、けれどすぐに立ち止まる。それでもリヴァイが黙っていると、しびれを切らしたのか振り返った。
「お前さん、知ってたのかい」
「何を」
「この島のことさ」
無知と不安を演じて、小さく肩を竦めて見せると、老人は目元を歪めた。リヴァイをここまで案内しておきながら、悪人になれるほど割り切れてはいなかったらしい。迷うそぶりで向き直り、こわごわと髭を揺らす。
「ここには、昔から……神が住んでるんだ」
「——神?」
「そうだ……その神のために、健康で若い男をこの島に置いておくことになってるんだ。そうしないと、ここら一帯の海は荒れに荒れて、航海なんてまったくできなくなる……神が男の命を吸っているあいだは、海はけして荒れないんだと」
リヴァイは、老人の真剣な面持ちに口を噤みはしたものの、予想外の方向から話が放り込まれた気分だった。てっきり密輸の経由地にでも使われているのかと思っていたからだ。
神。外なる存在。
確かに、人に干渉する神の伝説は世界の各地に残されている。リヴァイも子どものころからその手の話をいくつも聞かされて育ってきた。まさか自分の身に降りかかるとは露にも思っていなかったが。
「アンタは……見たことあるのか。その、神とやらを」
「ないよ。俺ぁつい一年前に漁師を引退して、急に案内役に指名されたんだ。神の話だって……海を荒らす奴への戒めくらいにしか……思ってなかった」
「だが、前任者がいなくなった」
「……海では珍しいことじゃないさ。一人っきりで毎日毎日波の音ばっかり聞いてると、頭がおかしくなっちまうことがある……」
反論の形をとりながらも、その目や指先、島の空気に浸った全身はびくびくと周囲を警戒している。
「男をこの島に置いておかないと」と老人は言った。おそらく〝頭がおかしくなっちまった〟のは一人二人の話じゃないのだろう。しかしそう頻繁に失踪と灯台の不良が起こっていたとしたら、頭を悩ませるのは街の人間だけじゃないはずだ。
「灯台ってのは、普通は海軍の管轄じゃないのか」
「……」
「そっちもグルか」
「……そこまでは、俺にはわからん……」
もしも結託しているなら、灯台守の着任にあたって気象観測や船との交信についての指示がなかったのも納得できる。リヴァイを雇った港街は国の海岸線の先端にあり、右手には軍本部を構えた首都、左手には国と対立する異民族の本拠を控えた微妙な位置にあった。目立って交戦はないものの、海戦に弱い軍が嵐に乗じた侵攻を警戒するのも当然と言える。〝けして荒れない海〟という平穏のためなら、どこからか流れ着いた半端者の命など、小舟一艘よりも安いに違いない。
この島と灯台は、まったき神への供物のための台座になっているのだ。
「まあ……お偉い連中も噛んでるってんならちょうどいい」
「え?」
「事情はよくわかった。アンタはアンタの役目を果たしてくれ」
困惑する老人に、行け、と手で示す。リヴァイが怯えて「逃がしてくれ」と縋りつくとでも思っていたのか、老人はしばらく迷うそぶりを見せていたが、結局、すごすごと浜へと降りて行った。
舟が海に出るまで、風に煽られつつ、崖の上から見送る。
「これきりかもしれない」と考えるリヴァイの心には、けれど不思議と波ひとつ立たない。
両親の死をきっかけに故郷を離れ、仕事も住処も転々として生きてきた。長いあいだ、人の輪の中で生きることに根拠もわからない違和感を覚えていた。己に向けられた厚意や優しさにも、常に「自分のものではない」という負い目が付きまとっている気がして、どこかでずっと、息苦しさを感じていた。
別に、ここを死に場所と定めたわけじゃない。けれどもしも本当に神がいたとして、自分の命を求めようというのなら。
最後の瞬間にその価値を問うてみたい、とリヴァイは思ったのだ。
小屋に入ってすぐは狭い廊下だった。左手にある入口は先ほど窓から見た食卓の間に繋がっており、眩んだ視界で見渡せば、やはりそれなりの広さがあった。部屋の最奥に暖炉と小さな調理台、室内で使う用の水瓶が置かれている。あれの中身は入れ替えたほうがいいだろう。床には貯蔵庫があり、老人の言うとおり、中には大体ひと月分の食料が残っていた。
食卓の間を出て、今度は廊下の反対側の部屋を覗く。こちらは寝室のようだが、家具らしい家具は小さな机と椅子、クローゼットとベッドだけだ。わずかに饐えたような臭いを感じ、暗くなるまでと刻限を決めてリヴァイはこの寝室の掃除にとりかかることにした。
なんといっても、一日の始まりと終わりをつかさどる場所である。
徹底的に洗濯するつもりで寝具まわりの布を剥がし、少し考えて湿ったマットも外に移動させる。家具もすべて運び出し、外倉庫からホウキとモップ、バケツと雑巾を持ち込む。井戸で水を汲み、頭と口鼻を布で覆い、準備は万端だ。
最初は天井にホウキを伸ばして埃を落とした。次に壁を雑巾で磨き、床に落ちて溜まったゴミを取りのぞいたら、あとは水を流してモップでひたすらこする。端から端まで丁寧に。灰色に濁った水をかき集めては外に捨て、また井戸から汲んできて床に流す。四隅にぶつかって返ってきた水が透き通るまで、何度も同じことをする。
前任者はまったく掃除に関心がなかったようだが、二度とモップの柄を握らない人間に文句を言う気も起きない。黙々と手を動かせば、わずかにあった他人の痕跡は跡形もなく駆逐されていった。
日が中天を過ぎ、さらに橙に色を変えるころ、ひきりなしに動き続けていたリヴァイは手を止めた。
掃除は十分とは言い難かったが、――背後から、視線を感じたのだ。
入口は目の前にある。リヴァイが尻を向けているのは、部屋に唯一ある窓だった。
腰を伸ばし、ゆっくりとそちらに振り返る。
開け放した窓が囲むのは、空と海と、そびえ立つ灯台の足から腹までの姿。雲間から落ちる幾筋もの細い光が、濁った空間と、灰色の石壁をうっすらと明るいものにしている。強い眼差しを投げかけてくるような存在は、そこにはいない。いないはずだった。
リヴァイは突然、目が覚めるように気が付いた。
窓磨きのことをすっかり忘れていたのだ。
午後九時を少し過ぎたころ。水平線が薄く燃えはじめた。
一直線に伸びたその赤い火が、螺旋階段を上るリヴァイの網膜を焼いては消え、焼いては消えを繰り返す。ひとつの小窓の前で、リヴァイは足を止めた。
雲でけぶる夕景は、風も音もない状態でぼうっと眺めていると、それが日が沈む直前の姿であることを忘れそうになる。時間も季節も、空間さえも今と異なる、どこか別の世界に放り込まれたような気になるのだ。奇妙な既視感と、強烈な未視感に同時に襲われる。だがことさら、記憶を巡ろうという気も起きない。巡るだけの記憶を、リヴァイは持っていなかった。景色に目を奪われたのも結局ほんの一瞬のことで、再び階段を登りだした時。
「―…」
すぐ後ろ。
ほとんど首の裏から、何か、声のようなものが聞こえた。
それは鳥や波や、およそこの場で耳にする可能性がある音の輪郭を持ってはいなかった。かといって、何かほかに「これだ」とわかるような源もないもので、ただ、産毛を湿らす程度の熱を帯びているだけだった。
不審であり、不明なもの。
リヴァイは、特に反応しなかった。止まっていた足を動かし、上まで登りきり、細い手すりを掴みながら吹き抜けになっている灯台の中心部を覗き込む。
何もなかった。何も、いなかった。
ハッチを開けて灯室に上がり、小さな缶に入れてきた燃料を台座の給油部に注いで、レンズとレンズのあいだの横蓋から燈芯にマッチで火をつける。
途端。ぽっと小さな光が灯ったと思うと、レンズの中心の一等高くなった箇所から目も眩むような閃光が突き抜けた。リヴァイは二、三歩後ろにさがり、目を細めながら、橙と白が混じる空間にいっとき視覚を馴染ませる。慣れてしまえばそれほど強い光ではなかったが、暗夜の中にあって、指先から生まれた火が太く長くと空に伸びる光景は何か大きな仕事を成し遂げたかのような錯覚を起こす。
が、ぼうっとしてもいられない。足場に戻り、吹き抜けの手すりに溶接された巻き上げ機の前に立つ。この機械についているハンドルを回すと、吹き抜けを下まで垂らされた分銅がギチギチと音を立てながら登って来る。ハンドルから手を離すとこの分銅はまたゆっくりと地上に降りていくのだが、この力を利用して灯器の台座を回す仕組みになっているらしい。
両手で硬いハンドルを回し、綱が巻き取られたところで手を離す。と、ギイ、ギイ、と大きな音を立てて回転が始まった。ハッチから顔を出し、灯器の動作を眺める。問題はなさそうだ。
リヴァイは、しばらく昼間ほども明るい室内で座り込んだまま、一定間隔で流れ続ける灯台の命の音に耳を澄ませた。そうして、地上に沈む管理小屋へと戻っていった。
女が立っていた。
女、と呼んでいいかはわからないが、なんせ男に見られるような筋骨の角や盛り上がりを持っておらず、かといって女の甘臭さが滲む箇所もなく。丸い額のシルエットで、かろうじて女だと判別できる程度の像しか、リヴァイには認識できない。
枯れた色の短い草を、両足でしっかと踏んで、波濤が泡立つ灰黒の海を背に、女はリヴァイを見るともなしに見ていた。顔貌は……そこから光を発しているかのように、どうにも輪郭を作らない。
ふう、と風が届いて、リヴァイの前髪や襟を揺らした。覚えのある感触に意識を奪われた瞬間、衣擦れだとか、木の葉の群れの騒めきだとか、雑踏だとか、そんなものに幾重にもかじられたような声が、耳元でささやく。
「さみしい?」
眼が開いていると意識するまで、ゆうに二十秒。
椅子の上で固まった背を動かし、あてどなく目を泳がせる。
暗闇は夜の海じみていた。さわさわと騒がしいかわりに、リヴァイに何も伝えない。
自身の所在が曖昧になるような覚醒は、故郷の村を出てから放浪するあいだ、一度もなかったように思う。忘我に至るほど深く眠ることがなかったのだ。
ぼうっと過去を回想していたところで、不意に、視界の一部がやわく白んだ。窓から差し込んだ灯台の光が壁の一部を漂白し、また黒に戻す。遠ざかった光は、十秒後に再来し、また消えて。
優しいその連続が、体表に残っていた眠気を撫でる。とろとろと忍び寄ってきた夢――そう、珍しいことに、夢だ――に再び肩を掴まれそうになったリヴァイは、頭を振ってそれを遠ざけた。
朝から動きっぱなしで小屋全体を掃除したせいか、さすがに全身が疲れを訴えて、不本意な場所で眠りについてしまったらしい。
関節のまわりや額にかかる髪が妙にベタついているように感じる。沸かした湯で念入りに全身を清めはしたが、潮風に常に晒される環境では間に合わない。
明日は風呂小屋を洗浄しようか。そうすれば目下の安穏はとりあえず手に入れられたことになるだろう。
今だって、ぼんやり座って朝を待つ必要はない。日が上らないうちから外に出るのはさすがに憚られるが、食器くらいは磨けるのではないか。
急に思い立ち、窓の桟に置いていたランプに手を伸ばして、マッチで明かりをつける。途端、壁の木目が視界に飛び込んできて、リヴァイは今の今まで忘れていたことを思い出した。
今日、この部屋の机を動かした時、裏に一冊のノートが落ちているのを見つけたのだ。中身も確かめずに机の引き出しに放り込んでしまったが、あれは前任者のものじゃないだろうか。リヴァイは少し考え、立ち上がって磨き上げたばかりの机の前に立ち、引き出しからノートを取り出した。
改めてまじまじと見れば、茶色く焼けた表紙には何も書かれていなかったが、インクを吸った紙特有のごわごわとした感触がノートに厚みを加えている。中に何か書かれているようだ。
最初のページを開く。一行目は日付が記されており、その下につらつらと文章が続いていた。おそらく、これは日記だ。他人の頭の中を覗く趣味などリヴァイにはないが、謎の失踪を遂げた人間の記録であるとすれば、何か行方を示すような記述が残っているかもしれない。雑にめくって、拾い読んでみる。
『ここはつまらない島だ
暗くて、湿っていて、心を震わせるようなことなど何もない』
『夕日は腐った卵の黄身みたいに歪んでいる
風は生き物の死骸の臭いだ
舟は汚い尻を晒して去るだけ
星なんてひとつも見えやしない』
期待に反して、そこには当たり障りのない、退屈な日常を嘆くだけの文が続いていた。天候や風、波の状態などもしばらくは書き込みがあったもののすぐに消えて、日付も次第に飛び飛びになる。内容も似たような一行二行が書かれているだけだ。手がかりらしいものは何も見つかりそうになかった。
『この島には何かいる 奴の息を感じる』
とあるページに差し掛かった時。「息」の単語が、リヴァイの目を引き止めた。頭から読みなおす。
『ここ数日 変なことが続く
朝起きて小屋を出たら 何羽もの鳥が 俺を不気味な目で見ていた
灯台や部屋の中に 俺のではない足跡があった
この島には何かいる 奴の息を感じる
灯台に近づくと 頭のすぐ上にそいつがいて 俺のやることをじっと見ている
時々 笑っているような気持ち悪い息を吐く
夜になると 一層強く気配を感じる
眠る俺のそばに立って 朝まで見ている
夢のなかにまで追いかけてくる 気が狂いそうだ』
心の乱れを映したように、文字の軌跡はふらふらと上下に揺れている。
どうやら日記の主は、自分以外の不明の存在がこの島にいる、と感じていたらしい。怪我をするような危害を加えられた記述はなかったが、物が勝手に動いたり、到底人間ができないような現象を体験したこともあったようだ。街の人間に訴えても取り合ってもらえない、という文も見つけた。老人が「様子がおかしかった」と言っていたのはこの時のことだろう。
冊子の半分を過ぎたころ、終わりは急に訪れた。最後のページの日付は今日から一週間前、書かれていたのは数行だった。
『嵐が』
『嗚呼、信じられない
彼女は女神だ
俺の女神』
「……情緒不安定な奴だな」
恐怖の対象から一転、女神ときた。急な掌返しに呆れながらも、リヴァイは、今朝この管理小屋で見たものを思い出した。卓に放置されていた食事のあと。向かい合わせにセットされた、二対のカトラリー。一人で食べるには少し多い量の食事。
あたかも、誰かをもてなしていたような飾りつけ。
――「孤独に呑まれんことだ」
日記の主は、孤独に呑まれて〝おかしくなっちまった〟のだろうか。
それとも、この島の神に魅入られてしまったのか。
窓から灯台の光を見る。やはり、その全貌は闇に沈んでいる。リヴァイ椅子の背もたれに重さを預け、腕を組んで目を閉じた。皿を磨く気力はなくなっていた。
朝を待つための姿勢を作り、全身の感覚を休ませながら、先ほどまで沈んでいた夢のことを考える。
瞼の裏に再び浮かんだ景は、先ほどと少し違っていた。
名もなき孤島。灰色の海。淀んだ空。黒く歪な石や砂から、焦茶色の断崖を登って、灯台の白い岩壁に辿り着く。
視点が映る。
リヴァイは空にいる。空から、灯台の搭頂部を見ている。バルコニーにはあの女が立っていた。大した距離でもないのにゆらゆらと霞んでいるそれは、けれど日記の影響だろうか、先ほどよりもずっと確かな質感を持ってそこにあった。すらりと高くて、起伏が少ない。顔は相変わらずぼやけているが、強い眼差しを持っている、とリヴァイに教える。
互いの距離は一定に保たれたまま、女が、唇を動かした。
「歓迎するよ」
深く、息を吸う。潮を含んだ空気が肺を満たし、どころか、背筋をつたって頭の天辺を通り抜けていく。
リヴァイは数秒だけ、前任者や、その前の者たちの行く先に思いを馳せた。だけどそれだけだった。
目の前にあるのは、不明であり、不審であり……ただ、それだけのものだったからだ。
〈続〉
(初出 24/05/26)
(更新 25/02/28)
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